2008年度大会は愛知教育大学で開催されます。これまで慣例として、大会開催校は東北、関西、関東の順で決定されてきました。一昨年は岩手大学、昨年は長崎大学ですから、今年は関東という順番でした。ところが、どういうわけか、愛知県は東ブロックに含まれるということになって、今年は愛教大で開催ということになりました。
中部地方は文字通り中部であって、東と西の真ん中に位置します。しかも、愛知県はまた、尾張地方と三河地方で二分され、愛教大はその尾張と三河の境界線、境川の近くにあります。そのため、ちょっと名古屋からの交通の便はよくありませんが、緑に恵まれ、環境的には申し分ない場所にあります。
愛教大は、日本思想史学と不思議な縁があります。本学附属図書館には、『古事記』の英訳者、『日本事物誌』の作者として知られる、イギリス人バジル・ホール・チェンバレンの文庫があるのです。不思議な縁というのは、わが日本思想史学の創設者の一人、村岡典嗣がドイツ留学中に、レマン湖畔のホテルにいたチェンバレンを訪ね、彼の死後に、心のこもった「日本学者としての故チェンブレン教授」という一文を草しているからです。そのなかで、チェンバレンが「現時日本の国民精神の焦点をなす忠君愛国教は、明治の官僚政治家によつて、新たに発明された宗教」であると説いていたことにたいして、村岡が反論したことはよく知られています。今回、大会期間中の2日目、19日に、このチェンバレン文庫の一室を学会員に開放しますので、是非いらっしゃって、チェンバレンの蔵書の一部・自筆書簡と身辺雑具をご覧ください。
また、大会シンポジウムの「戦前と戦後―思想史から問う」というテーマも、師範学校を前身とする愛教大で行われる大会には、ふさわしいものだと思います。というのは、戦前ここで、チェンバレンのいう「新たに発明された宗教」である「忠君愛国教」を教え込まれた学生が、小学校教師として巣立っていったからです。そうした歴史を振り返る意味でも、今回の大会シンポジウムを大いに期待しています。
学会員みなさんにとって有意義な大会になるよう尽力しますので、ご協力のほど、お願いします。
大会シンポジウムとしては、開催校からの案内にもありますように、「戦前と戦後―思想史から問う」というテーマで企画しています。
「戦前と戦後」をまたぐ時期の言説空間については、これまでも多くの議論が積み重ねられてきました。特に近年は、「戦前」と「戦後」という区分によって見えなくなったものごとに対しての批判的な問い直しが行われてきました。日本思想史学に関しても、その由来を昭和前期に求める議論が提出されるなど、多くの新たな視野が開かれてきました。一方、「戦前」と「戦後」との間には、厳然たる断絶(および断絶の意識)があり、そこを出発点にして、私たちの日本思想史研究も展開してきました。日本思想史を専門とする者として、昭和から平成に年号が変わってすでに二十年が経過する今日、「戦前と戦後」の連続・非連続の問題も含めて、改めて、具体的場面から客観的な視点で捉え直してみようというのが、本シンポジウムの趣旨です。
もとより、想定される約50〜60年間にわたる言説空間には、きわめて多様で屈折した思想の展開があり、それらを単純に、何らかの概念枠組みによって分節しようという意図は有していません。私たちにとってなかなか客体視できない、しかしながら、私たちの研究の営みにも深く関わっている、この時期の思想への新たな切り口を見いだしたいと私たちは考えています。幸いに、報告者として米原謙氏、植村和秀氏、コメンテーターとして苅部直氏、菅原潤氏という、まさに最適の専門家から本企画へのご参加を得ることができました。大会委員会では7月に、報告者、コメンテーターの方々と共に会議を持ち、視線の交差と問題の焦点化についてさらに議論を深め、大会を迎えたいと思っています。
2007年は、中世神道研究にとって、ひとつの画期となる年であったと記憶されるかもしれない。というのは、4月に米コロンビア大学で、世界で初めての「中世神道」をテーマにした国際シンポジウムが開催されたからである。Symposium on Medieval Shinto 2007 と銘打った会議はColumbia Center for Japanese Religion(CCJR)主催で、26日から29日まで4日間の日程で開かれた。以下、そのシンポの内容を中心に、近年の中世神道研究の動向について述べてみたい。
シンポはまず、欧米における中世神道研究のパイオニア的存在であるAllan Grapardの基調講演で幕を開けた。Grapardは講演の中でいくつかの重要な提言を示したが、特に「中世神道には学際的アプローチが必要だ」と強調していたのが印象に残った。この点については、後で述べる。2日目以降については、紙数の関係で氏名を挙げるのみにとどめるが、伊藤聡, Lucia Dolce, Bernard Faure, Anna Andreeva, 阿部泰郎, Bernhard Scheid, 門屋温, Brian Ruppert, Ryuichi Abe, 末木文美士, Jackie Stone, William Bodiford, 彌永信美, Mark Teeuwen, Fabio Rambelli (発表順)によって、発表と活発な討議が行われた。その内容はいわゆる神道研究のみにとどまらず、仏教や道教といった思想・宗教を始め、歴史学、文学、さらには美術史や民俗学的なものまで、実にバラエティに富んだものであった。
日本では中世神道研究は神道研究の一分野と見なされているが、最近の欧米の研究者はそうは考えない。神道を仏教と切り離すことなく、中世日本文化の根幹をなす哲学であると考えているようである。その結果、日本では神仏習合を現象ととらえ、その現象をどう説明するかに力点が置かれるのに対し、欧米では神仏習合自体を文化を動かすロジックとして考えようとする。こうした傾向は、本地垂迹説を日本文化を読み解くためのパラダイムと位置づけたMark Teeuwen & Fabio Rambelli, Buddhas and Kami in Japan: Honji Suijaku As a Combinatory Paradigm(2003)以降、より明確になったように思われる。海外の研究者の神道研究といえば、記紀神話や神社祭祀の研究がほとんどであった時代はすでに過去のものとなった感がある。
翻って国内の研究状況はといえば、相も変わらず古代・近世偏重で、中世神道研究者の層は薄い。それも30代・40代が中心で、次代を担う院生クラスが育ってきていない。初めて「中世神道」を冠した国際シンポが開かれたのが、日本ではなかったことがすべてを物語っていよう。しかし、その一方でAllan Grapard の言う「学際的アプローチ」は、国内でも確実に始まっている。いち早く中世神道の言説の豊饒さに目をつけたのは文学研究者で、阿部泰郎、小川豊生、齋藤英喜らは、今最も中世神道について鋭く切り込む研究をしていると言ってよい。ついでやって来たのが歴史学研究者で、吉田一彦、上島亨、松本郁代らの研究は、久保田収や辻善之助が作った神道史の構図を書き替えようとしている。2006年に國學院大學の神道COEが開催したシンポジウムは、名古屋の真福寺文庫の蔵書をテーマに、末木文美士、阿部泰郎、上島亨、福島金治らが招かれたが、これは神道学研究の変化の兆しと受け止めてよいのであろうか。
はからずも近年、国内海外を問わず、中世神道研究は従来の神道研究の枠組みを脱して、新しい研究領域を切り拓きつつあるかのように見える。昨年は奈良国立博物館で本格的な「神仏習合」展が開催されたことでもあるし、中世神道・神仏習合の研究が、今後さらに大きな波になってゆくことを期待したい。(早稲田大学非常勤講師)
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