仁斎が最も危惧していたことは、平易・卑近なものの本当の価値を理解するのが困難である、ということである。浅見絅斎が『箚録』で「彼仁斎ガ云ル孝弟忠信ハ皆只殊勝ニ世間向キノ最愛ガリ結構ヅクニテ、嫗嬶ノ挨拶云様ニ柔和愛敬ヲホケ〃〃トスルコトヲシアフ迄也」と批判しているように、平易なる孝弟忠信をひたすら実践せよと説く仁斎は、しばしば「郷原」と見做される。しかし仁斎に言わせれば、こうした批判の根底にこそ、平易なるものを平易であるが故に軽んじてしまう、という最も恐るべき考え方があるのである。仁斎は孔子に、日用・平易のがわに徹底して立脚する姿勢を見出す。日用・平易なるものは、ともすれば軽んぜられ、至極の価値があることを知るのは極めて困難であった。だからこそ、そこに真価を見出し、徹底して立脚した孔子は「最上至極宇宙第一」とされるのである。本発表では、仁斎が「日用」「平常」「卑近」なるものと「広大」「高遠」なるものを対置した上で、いかに「日用」の側に徹底したか、またそれはいかなる意義を持つかについて考察する。
近年の国学思想史をめぐる研究状況を考える際、とりわけ参照にされ、中心的主題となってきた問題は、《文字》と《音声》をめぐる二項対立の問題だと考えられる。かかる視点によれば、純然たる〈声〉が刻印された、〈ヤマトコトバ〉をいかに成立させてきたか、というイデオロギーに対する批判という文脈でなされてきたように思われる。
だが太宰春台(1680〜1747)は『独語』で次のように説いていた。「凡、唐土と我が国と風俗同じからずと云へども、詩と歌ばかりは其の道理全く同じ」と。これは明らかに儒家だけが持っていた理念ではなく、国学者の歌論も同様に共有していた問題である。このように考えるならば、これまでの国学思想史研究において、最も欠けていたものは、明らかに〈詩〉論をめぐる〈共時性〉に関する問題を放置したまま、儒学と国学を分断したものと看做した上で、異なる位相の中で「敷島の道」へと連なるものとして〈和歌〉を位置付けてきたことにこそ問題があるように思われる。
本報告ではかかる問題意識を射程に収めた上で、近世儒家の〈詩〉論と近世国学の〈歌〉をめぐる思想的位相を考察することを目的としている。とりわけ、本報告において、主題とするのは、太宰春台(1680〜1747)・服部南郭(1683〜1759)・賀茂真淵(1697〜1769)の詩論や歌論テクストである。しかし、それだけでは〈詩〉や〈歌〉をめぐる問題が「音聲の道」に回収され、これまでの研究蓄積と変わらないものとなってしまうだろう。その新たな回路として、近世日本における「韻鏡」研究と「清代古音学」を見据え、これまでは「文字の抑圧」という形で捉えられてきた回路を《文字》と《音声》という問題ではなく、〈韻〉と〈義〉と〈字〉が一体となった、「漢字」という〈コトバ〉をめぐる根源的思考を最終的には紡ぎ出していきたいと考えている。
服部南郭(一六八三〜一七五九)は、荻生徂徠(一六六六〜一七二八)の思想・学問のうち文学的側面を主に継承したとされる人物である。文学的側面を主に受容した理由については諸説あるが、南郭の強烈な自己表現欲や、政治への無能力感や挫折感を原因とするのが一般的である。本発表では視点を変え、壮年期の「雑詩三首」(収『南郭先生文集三編』一七四五年刊行)において、南郭が「人生一以死、去者将安之。水流不返源、枯桑不生枝。非復少壮日、老大当憑誰」と詠い、死や老いへの率直な憂悲を吐露していたことに注目する。この死や老いの憂悲を解消すべく南郭が没頭したのが、友人との交流とそれに伴う古文辞学を駆使した詩作であった。
ところが晩年に著された「寐隠辯」(一七五二)ではそれまでの表現的受容を越えて、内面的に老荘思想から大きく影響を受けたことが確認できる。人の一生を「妄」とし、憂悲に限らず何者にも煩わされない「寐隠」の主張は晩年になるまで南郭には見られないものだった。
本発表では、徂徠学を生涯信奉した南郭であるが、晩年になるにつれて憂悲の解消は老荘思想が主に担っていったことを指摘する。
海保青陵の思想には、ひとの心を「道心」・「人心」の二つに分け、一方が他方を制御することを主張する、二心論ともいうべき論がある。
中国において二心論を問題として大きく取り上げたのは新儒学の徒たちであるが、中でも朱子の二心論は、「道心」を自己内他者として措定し、実在する自己たる「人心」を監督指示するという形をとっている。青陵の二心論も朱子と同様に「道心」による「人心」の制御を述べていることが、その著書『天王談』や『洪範談』から見て取れる。
『中庸』を典拠とし、感情の未発・已発を問題とする点において、青陵の二心論は朱子の影響を受けていると考えられるが、青陵の二心論は、自己内の二心の監督指示に留まらず、自己から離れた第三者的視点「空」が措定されており、いわば朱子の二心論を発展させたものとなっている。
本発表では海保青陵の二心論における第三者的視点「空」の役割を考察することで、青陵の二心論を明らかにすることを目的とし、あわせて朱子の二心論と、青陵の二心論とを比較することで、青陵の「空」が朱子の二心論を発展させたものであることを考察したい。
享保一六(一七三一)年、中国で長らく亡失していた経籍『古文孝経 孔氏伝』(孔伝)が、太宰春台校訂により刊行された。以降、『孔伝』は孝経刊行の大勢を占め、孝道徳の基となった。
『孔伝』は、前漢の孔安国伝と称される古文孝経の注である。孝経には、古文『孔伝』の他に、今文のテキストがある。両者の相違の一つは、章の分け方や並べ方、つまり[章立て]にある。ここでは、章の分け方に着目する。
章の分け方とは、今文の一章分が、『孔伝』では分立する複数章分に相当することをいう。本発表で取り上げる「孝優劣」では、前二章「聖治」「父母生績」を合わせた三章分が、今文「聖治」一章分に相当する。章には一貫した主題が設定される。『孔伝』は、今文とほぼ同じ分量の経文について、三つの主題を立て、主題ごとに章を分立させたのである。「孝優劣」という主題設定と章立てには、『孔伝』特有の意義があると考えられる。
発表では、春台を始め諸本の「孝優劣」解釈と、同章に相応する今文『孝経正義』とを比較考察する。考察を通して、@統治者による孝治から、行政官の徳目へと主題が変更し、A孝経の読者層を広く一般に開放する契機になったことを指摘する。
本居宣長の「もののあはれ」と古道の関係は、先行研究によって主に【段階論】【二元論】【一元論】という三つの分類で捉えられている。しかしいずれも、@古道論で見られない概念、A『紫文要領』と『源氏物語玉の小櫛』との相違の意味という二つの疑問に応えることができていない。本発表は、古道論の確立に象徴される思考変遷のなかで、いったん否定された概念と捉えることで、「もののあはれ」を再認識することを試みるものである。
歌論期の宣長は、対象的世界(「事の心」)に着目することで「もののあはれ」論を確立する。それは「真の情」・「事の心」・「から人」批判という三位一体の言説であった。しかし古道に傾倒するに従って、「事の心」の不可知性が強調されるようになる。それは「人の心」への視点を捨てる行為であり、結果的に「もののあはれ」の否定へと繋がっていった。しかし、そうした状況が儒者との論争を通して変化が起きる。論争という性格上「漢意」が強固に概念化されていくに伴い、その対抗として「人の心」が再び要求され、それは「真心」・「意」・「漢意」という変質した構成要素を持ちつつも、「もののあはれ」の再生をも可能にしたのである。
『漢字三音考』(1784:天明4)は、本居宣長の日本語音韻論である。「皇國ノ正音」という音韻システム構築のために宣長によって行なわれた日本語音韻の選択と排除の論理、その論拠について考察する。
篤胤は『勝五郎再生記聞』によって産土神の役割を強調した。三河門人羽田野敬雄は篤胤の生前、いち早く『勝五郎再生記聞』の写本を入手していたが、これは誤字の多い「大悪本」であった。平田塾では『勝五郎再生記聞』を『仙境異聞』の附録とする計画を立てていたが、結局、単独の著述となった。篤胤没後の頃より、平田塾では『勝五郎再生記聞』の清書本を希望する門人などに頒布していったが、地方門人による『勝五郎再生記聞』受容の仕方は多様であった。例えば、六人部是香のように篤胤の産土神説を修正するものも出現する。鶴屋有節や平尾魯僊の場合も独自の仕方で受容していた。但し、平田派内では、『勝五郎再生記聞』の再生譚そのものを疑ってはいないのである。門人以外の者にも転写本などによって各地で読まれていたのであり、関心の高さが窺われる。しかし、明治以後、『勝五郎再生記聞』をめぐる状況は変化する。井上円了は勝五郎一件の再生譚を批判的に取り上げて六道輪廻説の近代的再解釈の方向に論議をすすめていった。一方、柳田国男が「生まれ変わり」の真偽よりもそうした伝承から民間における子供観の特徴を析出したように、再生観の大きな転回が起こることになる。
本報告では、明治末期の井上の儒学研究を、井上哲次郎の陽明学研究の変遷を通して検討する。従来、井上は、キリスト教徒との間に起こした教育と宗教衝突論争や明治末期に国民道徳論を展開した、国家主義者として評価されている。また同時に、明治30年代に『日本陽明学派之哲学』をはじめとする日本儒学三部作を著すなど、日本儒学の研究者としても評価されている。
しかし、この二つの評価の関係については検討の余地があると考える。明治20年代以降の井上の陽明学研究、特に『日本陽明学派之哲学』が、どのような課題や射程をもったものとして著されることになったのか。その過程を再検討するのが本報告の目的である。
本報告では以上の課題を検討するにあたって、井上とキリスト教徒との対立に着目する。明治20年代以降のキリスト教徒との対立が、井上の儒学研究にどのような影響を及ぼすことになったのか。特に儒学研究の中でも、何故、井上は陽明学を高く評価したのか。その過程を検討することで、井上の儒学研究を再検討し、そして明治末期の国民道徳論へのかかわり方の糸口も明らかにしたい。
明治十年代前半の神道界における「祭神論争」の反省から、明治政府は、「祭祀」と「教義」と「学事」を分離する方針を立てるが、それに呼応した国学者・神道家らは明治十五年、「宗教的教義」とは距離を置き「道徳」を重視する国学的研究・教育機関として皇典講究所を創立した。さらに、同二十三年には同所を母体として國學院を設置し、「東京大学(帝国大学)系の国学」の人的遺産や「国史・国文・国法」を内容とする国学構想をも引き継ぐ。しかし、明治四十年の國學院大學編輯部による『明治國學概觀』の編纂構想では、「明治国学」の内容として道徳・神道・国史学・国文学・国語学・歌学という分野が考えられており、さらに大正九年、大学令大学昇格の際には、道義・国史・国文の三学科を置いた。大正七年には佐伯有義が「神祇科ノ設置」と「道義科ノ拡張」を意見として提出していたものの、結局、戦前の國學院大學の学部においては、近代的分科としての「神道」学科は成立せず、「道義」学科が置かれたのである。本発表は、明治末期以降の「国民道徳論」との接続を視野に入れつつ、皇典講究所・國學院における「神道」と「道徳(道義)」への眼差しを概観するものである。
帝国成立期、すなわち世紀転換期から日露戦争前後にかけては、民友社系知識人が「帝国」思想を受容し、実態に先行して「帝国」日本の建設を訴え始めた時期である。その一人である浮田和民は、「帝国」日本の建設を唱道する点において徳富蘇峰に近い思想的位置に立っていたが、「帝国」を支える「国民」として「人格」を備えた「個人」の形成を唱えた点では先駆的であった。しかし、当時の浮田が言う「人格」とは「社会及び国家」に対する「義務の主体」であり、「義務を果たす能はざる者」は「倫理上人格のない者」であった。さらに、浮田においては手段としての忠孝道徳を時代遅れとして批判することは可能であっても、「国家」から独立した「人格」及び「個人」は全く想定されていなかった。このような浮田の「人格」概念が、「自由」であり自己自身に価値を持ちうる概念へと変化するのは、日露戦争時、朝鮮半島での日本人による朝鮮人虐待という現実を知り、朝鮮の評価を「群集にして其の精神は恰も小児の心的状態」から「一種の文明国」と変えた後であった。この変化によって、大正デモクラシーの思想的嚆矢と評される浮田の「倫理的帝国主義」思想が確立されたのである。
一九二〇年代、柳田における最も重要な課題は各民族の固有の文化を保存し尊重する政治を行うことであった。日本の植民地統治政策または国内の中央集権的政策に対する柳田の批判は、文明の優位意識に基づき内外の固有文化を否定し破壊する政治であった点に向けられていた。その対策として対外的には「共同生存」を目的とする政策の実現、具体的には連盟による委任統治方式の実現を肯定した。国内的には辺境地域の問題を政策の基礎とし地方相互の理解や「平和の百姓一揆」を再生させることにより、失われた「共同の自治」精神を復活させようと考えていた。その際普通選挙制度の活用と組合活動に期待した。柳田にとって政治とは「国民総体の幸福」のための政策の実行であり、自国の歴史的経緯やそれによって構築された文化的特徴と切り離すことができない。国民総体の歴史文化の解明である「地方学」(民俗学)は柳田の政策立案の発想と方法から必要不可欠なものであった。
明治の浪漫主義歌壇を牽引した与謝野晶子(一八七八〜一九四二)は、「文明化」という時代的課題を強く意識した社会評論家でもあった。自らも積極的に「文明化」しようとする与謝野は、その結果として「自分は日本人である」という国民意識を獲得した。しかし、同時に与謝野の「文明化」が、彼女をして国家に回収されてしまうことを自覚的に拒否させるものでもあったことが注目される。与謝野は「文明」的な生き方と称して、文学者、妻、母、社会評論家と、人生の新局面を次々に切り開いていったが、それは「…としての自分」を無限に創出する営みであり、そこでは「日本人としての自分」も数ある自分の一面として相対化される。また、その国民意識も、日本を改良することに主体的でなければならないという義務感を与謝野に与え、日本に対する強い批判精神を有した社会評論として結実していく。あらゆる価値創造が自己を主体として行われなければならないとする与謝野の「文明」主義においては、常に自分が主であり、国家は従でなければならなかった。「文明」というイデオロギーに忠実であった与謝野の思想は、それ故にこそ国民国家を乗り越える可能性を持っていたのである。
一九一〇年代から四五年にかけて、日本の女子教育機関には、台湾・朝鮮・中華民国・「満洲」の各地域から来た多くの留学生が在籍していた。発表者は、彼女らの受容やその存在をめぐって、いかなる認識が形成されたのかに注目して研究を行ってきたが、そこには民族とともに階級が強い影響を与えており、またジェンダーという側面にも注目する必要がある。そこで本発表では、留学生政策・教育に大きな影響を与えたと考えられる男性知識人の思想と彼らが果たした役割とその評価について、とくに朝鮮や朝鮮出身者との関係性に着目して考察を行うこととする。
具体的には、1920年代に同志社総長であり女学校校長でもあった海老名弾正、同じく同志社大学・同志社女学校で教鞭をとっていた柳宗悦、そして日本女子大学校の二代目校長であった麻生正蔵を取り上げることとする。海老名はキリスト教伝道、柳は朝鮮美術に関わる運動、また麻生は3・1独立運動後の留学生受け入れに関わるなど、それぞれが植民地期朝鮮とそこからの留学生との間に独特な関係性を持っていたと考えられる。学校を背景とした植民地主義のあり方について、三者の具体的な営みや思想を取り上げながら、検討したい。
柳田國男と折口信夫。民俗学の創始者を問うと決まって二人の名前が挙げられるが、従来両者の思想についてはその異質性ばかりが強調されてきた嫌いがある。しかし、折口自身は終生、柳田の追随者であることを公言し続けてきたのであり、それは彼が独自の学風を創り出したとされる著作『古代研究』の追い書きにおいても確認することが出来る。しかしこの追い書きにおいて折口は、民俗学の方法に加えてもう一つの方法を用いることが己の研究姿勢であると述べている。この方法こそいわゆる「古代研究」であり、民俗学の学問的発展のためには「現代」から遡源的に時代を逆行していく従来の方法と共に、「古代」を措定し発生から展開へ目を向ける古代研究が必要であると説くのである。この後者に関して、最後まで柳田は民俗学の方法と認めることを拒み続けるが、このことが後年、両思想の異質性が強調され、折口が「直感の詩人学者」と揶揄される所以ともなる。本発表の目的は、折口の思想は柳田の思想(民俗学)の上に成り立つものであるという視点から、その思想的展開を確認することにある。その試みを通して折口の理論家としての側面とその思想の先見性を明らかにしていきたい。
近代日本リベラルを代表する石橋湛山は、昭和初期に、今や日本は新文化を創造する時代に到達した、と主張した。そしてその創造によって日本人は、第一に「真日本」を発見し、第二に「世界的新日本」を生み出すことになり、これは世界文化史への貢献になるだろうと説いた。
この「真日本」、「世界的新日本」という視座は、実は湛山の思想に一貫しているものである。そしてこれは、彼が愛国者であり、またナショナリストであったことが深く影響している。つまり愛国心が、「偽」を排して「真」を追求する姿勢の原動力となったのである。彼が新文化の創造を強調したのは、それが「真」であるという確信に基づいていた。他方、ナショナリズムが「世界の中の日本」という意識を生み出した。だからこそ、世界文化に寄与するためには、新文化の創造以外にはないと唱えたのである。「覇道」ではなく、「王道」に依拠して日本は、前進していかなければならないという強い意識がそこには存在していた。
「日本の在り方」を問い続けるナショナリスト、愛国者としての石橋湛山の姿を彼の文化論を通じて明らかにする。
法哲学者・恒藤恭は戦時期には体制に対峙し、戦後、平和と民主主義を擁護した知識人として知られる。ここではかかる恒藤の平和主義思想の歴史的内実を明らかとすべく、特に総力戦体制期における彼の思想的抵抗の様相を俯瞰することとしたい。そのため、本報告では主に往時盛んに立法された「統制経済法」に対する恒藤の応答を検討することとする。なぜなら統制経済法とは通常ファシズム法体系に位置づけられるものであるが、それは同時に社会主義的要素をも含まざるをえないものだったからである。恒藤はかかる統制経済の性格に留目することでそこに従来抱ききたった独自の社会民主主義的解釈を付与、戦時統制経済を内在的に相対化、抵抗を試みたと考えられる。それは例えば戦時経済で最重視されるはずの「国防」理念が恒藤では全く重視されていないということにも表れている。恒藤は侵略戦争を回避し国民の健全な生活を保護するためにこそ、敢えて統制経済を論じたのである。それはまた往時国策遂行を推進した新体制論者との微妙なしかし決定的な差異でもあった。そしてそのゆえに、かような観点は戦後にも一貫して維持され、戦後民主主義擁護の中で展開されたのである。
本発表は、昭和戦前期の論壇状況を分析するにあたって、各紙誌に掲載された「論壇時評」の機能と史的履歴とを整理・考察するものである。「論壇時評」欄は、まず1931年に雑誌『中央公論』に定着した。論壇ジャーナリズムの多様化と複雑化とを背景として、その情報整理を期待されて開始したため、要約の効率的遂行に習熟したアカデミズム出身の論客たち―当時大学を追われた石濱知行や大森義太郎などのマルクス主義者―が毎回交代で起用される。しかし、それは連載9回にして早々に打ち切られる。この終了と時を同じくして、31年11月より『東京朝日新聞』において「論壇時評」が開始され、ただちに『読売新聞』へも波及する。担当者の傾向も同様である。
ところで、こうした「論壇時評」に先行して、『中央公論』誌上では、1915年10月以降、吉野作造が13年間にわたって時評欄(「内外時事評論」→「内外時論」→「時論」→「時評」→「社会時評」)を単独で担当していた。ただし、同欄は28年12月に終了しており、この「社会時評」が「論壇時評」へ転換したと見立てることが可能である。本発表は、この転換がもつ思想的・時代的な意義についての考察を中心に展開する。
先行研究において、自由人権協会の調査報告に基づいて1955年1月13日から始まった『朝日新聞』の一連の沖縄キャンペーン、いわゆる「朝日報道」が、本土側における戦後沖縄「発見」の画期として位置付けられている。こうした言説が繰り返されて通説化・純化されるなかで、1954年以前には本土側においてほとんど沖縄に関する具体的な記事がなかったかのようなイメージが定着しているように思われる。だが、関心がそれ以上に拡がらなかったのは事実としても、実際には、民俗学・歴史学・教育学などの専門雑誌のみならず、総合雑誌や婦人雑誌などにおいても沖縄の現状をめぐる記事が少なからず存在するのである。
そこで本報告では、専門雑誌とは異なり商業雑誌として作られ、一定数の読者を想定できる総合雑誌・婦人雑誌を中心に、戦後初期における本土側の沖縄観について検討していく。その際に、既に先行研究でも指摘されている、1953年公開の映画「ひめゆりの塔」が沖縄観の形成に与えた影響についても関連する限りで検討を加えていくこととする。そして、1954年以前の記事の検討を前提としたうえで、1955-56年の記事との比較検討を行い、その変化を明らかにする。
戦時下、他者への「侵略」というかたちで他者に「開かれた」帝国日本において、丸山の国家-国民観がどのような「インターナショナル性」を持っていたのか、同時代知識人である竹内好の中国認識と突き合わせて考察する。丸山における自足的・自己完結的な「日本(人)」の枠組みは批判すべき点として確実に踏まえた上で、しかし植民地支配という外への(ある意味での)「開け」の情況において、自足的ではありえなかった帝国日本の姿が、丸山においてどのように現れているのか。竹内は「侵略」を通して「アジア」に希望を見出し、その挫折から戦後を出発するが、丸山の「弁証法的全体主義」もまた、植民地支配を射程に入れたものである。その上で、両者の思想が戦後の思想空間において、日本的「近代」をめぐって互いに補完的な位置をとるようになることを見る。両者における戦中/戦後の連続性を明らかにしながら、植民地認識そのものの連続性、あるいは戦後への切り換え作業を、具体的に示してゆきたい。
本研究発表では、主に歴史形成論と形態論という両手法を使って、近世の武士道を捉えその性格を明らかにしたい。武士道は、武士の振舞いや精神、倫理規範、心構えなどを指しているが、時代の変化に従って「武士道」そのものも変わってくる。江戸時代に入ると、200年以上に及ぶ持続的平和の下で、武士は武人から役人、行政官へ転身せざるを得なかった。それにともなって、武士道もまた武勇一辺倒から治者としての心構え、倫理性を尊ぶ武士道へと進化、発展を遂げる。もう一方、士農工商という身分社会では、治者、為政者の「道」としての武士道は優位を占めていたが、町人道や農民道も出現するように、武士道は必ずしも普遍的な社会道徳ではなかった。武士道と町人道、農民道との関連にも触れて、近世における武士道の性格を探りたい。
慶長・元和頃に成立し、十七世紀を中心に広く流行した『太平記秘伝理尽鈔』は、南北朝時代の歴史を描いた『太平記』の注釈書である。『理尽鈔』は、「評」で兵法・政道・倫理など多様な観点から論評を加え、「伝」により新たな伝説を付与して独自の世界観を構築している。この『理尽鈔』の中で最も中心的な存在が、『太平記』において智勇兼備の忠臣として形象されている楠木正成である。
本発表は『理尽鈔』の正成像について、「評」を中心とした叙述と正成の言動を個別的に着目し、両者の関係性を検討することで正成像を対象化し、その位相の把捉を試みるものである。まず、「評」で述べられる固有の主張(=理論)と正成の言動の関係、および正成に対する評価の様相から、「評」と正成の言動の連動関係を指摘し、『理尽鈔』の「理想」の体現者としての正成像の形象方法を確認する。次に、建武の新政から湊川の戦いに至るまでの正成の葛藤、過失と反省、正成が語る死の論理を取り上げ、正成像の推移・変容と、正成への異質な評価姿勢を指摘する。結論として、正成の不完全性と、正成に対する批判的な評価姿勢から、『理尽鈔』の、絶対的存在の正成を相対化する視座を示す。
イメージというものは社会的な環境によって変わるものであろうと考えられる。ある像(=イメージ)の生産過程や変化過程をある時代の流れに即して研究するのであれば、その過程の期間を通して現れた様々な原典だけでなく、期間中に行われる環境変化のあり方も考察する必要がある。本発表では、社会的な環境変化がどのようにイメージに影響を及ぼすかを紹介し、具体的な例として江戸時代における豊臣秀吉像を挙げたい。
秀吉の死から幕末まで秀吉の「死後の存在」を神格化期間、説話期間の二つに分け、二番目の説話期間をまた三つに区切る。その期間において、江戸時代特有の環境変化を「法制による変更」と「経済的な基準による変更」と定義すれば、イメージの変化の理由が明らかになるだろう。徳川期は基本的に法令、法度、定め等の多い時代として知られているから、禁制は秀吉像に互恵的な影響を及ぼしたと推測できる。また、秀吉説話はどの年代にもある程度の人気を得たため、経済的な基本原則、つまり営利性、需要と供給のバランス、競争のもとで展開されたことも推測できる。
このように、像、イメージを研究すれば、それに影響を及ぼす環境に着目する必要があることを強調していきたい。
国際舞台で活躍した教育者である新渡戸稲造(1862-1933)は、どのように自国の文化を理解しているか。そして、若かりし頃から基督教徒となった彼は、日本独特の信仰である「神道」をどのように考えているのか。これらの疑問は本研究の主な課題である。そもそも南部藩の武士の子として育てられ、そして早い時期に上京し、西洋の学問を学んだ彼は、神道における体験はほとんどなかった。しかし、幼いころ、神社の神主が話した人間の心に宿る「光」とキリスト教のクエカー派の一つの理念である内なる「光」ということによって、人間はそれぞれの心の中に導いてくれる「光」があるということを学んだ。新渡戸稲造は、その伝統文化として守るべき神道と近代化に強く影響を及ばしたプロテスタン精神の独特な共通点を発見し、自分の生涯においても大きな意義をもたらした。本研究では、新渡戸稲造の神道体験とキリスト教体験などを、彼の幼いころの思い出や外国人における日本紹介の講義、著作など通して彼の神道観を考察するという試みである。
内村鑑三(1861−1930)の思想において、「宇宙」は最も重要な位置を占める観念の一つである。それは自然と人類の歴史の全てを包み込みながら絶えず成長発展していくところの、神の創造になる究極的世界の謂であって、著名な「二つのJ(JesusとJapan)」の提題に集約される内村の思想と行動を根底から規定する観念といってよい。
本発表は、この内村の宇宙観の特質を、Japan and the Japanese(1894年、民友社)における二宮尊徳論の検討を手がかりに浮き彫りにしようとするものである。『報徳記』に基づくその記述で多用されているNature(天然), sincerity(誠実)および Universe(宇宙) 等の用語には、内村独特の〈翻案〉の跡が窺われる。また、ほぼ同時期の別のテキストにおける「宇宙の正気」という表現に示唆されている、キリスト教と伝統思想の折衝についても併せて検討する。そしてこの「宇宙」の観念が、内村の創始になる日本独特のキリスト教形態=「無教会」の思想的バックボーンとなっていることにも言及したい。
一八九〇年代末から一九〇〇年代初頭にかけての「国史学」における注目すべき学問状況として、「歴史理論の体系化」の動向が挙げられる。当時は、久米邦武筆禍事件を経て政府の修史事業が廃絶し、史料編纂事業が東京帝国大学に移され、「国史学」が対外的啓蒙活動を控え史料考証に沈潜化していく時期であるが、その一方で、「国史学」内部の若手研究者による史料考証主義への批判が、歴史哲学に関する議論と相俟って、『史学雑誌』上で展開されていき、その延長線上に内田銀蔵に代表される精緻な史学理論が構築されていった。
本報告では、改めて、当時の「国史学」研究者の「史学」理論の性格を検討するものであるが、その際、とくに内田銀蔵における「学問」と「思想」の関係に着目する。
内田の言う「史学」において、歴史理論と歴史哲学、更には研究法と理論はそれぞれ明確に区別されていた。同時に学問(研究・研究法)と思想(歴史哲学・歴史観・歴史認識)も明確に区別され、「歴史理論」はその中間の位置に存在していた。その一方で、日本歴史の総体化を企図した著書『国史総論』における総体的歴史認識は、日本歴史における「連綿性」に着目して「万世一系」の「国体」を特筆するものであり、この点において内田の歴史認識は「国体」論に搦め捕られていた。このような認識の性格とその相互関係を明らかにすることを通して、日本における近代歴史学が抱え込まざるをえなかった問題を剔抉することができると考える。
本発表では、佐藤信淵、二宮尊徳、安藤昌益、田中正造を日本の「四農」として尊崇した江渡狄嶺の思想をとりあげる。江渡狄嶺(1880〜1944、本名幸三郎)は、青森県五戸の呉服商家庭の生まれであり、明治大正昭和に跨っての特異な人物である。徳富蘆花や橘孝三郎、石川三四郎らとならんだ、日露戦後1910〜20年代にかけて誕生した多くの帰農知識人のなかの一人だが、同じ帰農知識人とはいえ、彼はそのなかの多くの離農者とは明確に一線を画し、〈自然〉に全面的に自己委任し、徹底した帰農生活を営んだ。彼は農の実践を新たな生活世界の創造として位置づけ、それを基盤に、1920年代から30年代にかけては、みずからに固有な極めてラディカルな「家稷農乗学」とも称する〈場〉の思想体系を形成した。十五年戦争期になると、彼は〈場〉論の立場を歴史・天皇・戦争への考察に応用し、独自の「場論国体観」に到達した。本発表は、まず農の問題を根底にすえた狄嶺の〈場〉の思想は何をめざそうとする思想だったのかを明らかにする。そのうえで十五年戦争期に見られる、彼の思想における〈場〉の思想と国体論の交錯およびその限界と可能性などについて考察を加えたい。
発表の目的は、二宮尊徳を、和辻倫理思想の先駆的実践者として位置づけることである。
尊徳は、18世紀後半という江戸時代末の農村社会において、廃家・廃村を立ち直らせていった。彼の営みは、人間も田畑も自然の中に一円に包括されている秩序体、つまり和辻哲郎が言うところの「風土」によって成り立つと見なして事にあたることで成り立っていった。
和辻によると、人間は一般的に「過去」を荷うのみではなくて、特殊な「風土的過去」を背負っている。風土は、人間の外にある自然ではなくして、いかにして人間の方がその自然を捉えたかを具現しているものである。
尊徳は、自然の持つ威力が精神的に人間を支配し得ることを十分理解していた。だから、自然の善い面を全面に引き出そうと努めたのである。それは、「風土的過去を背負っている」すべての人間の内なる善さを全面に引き出すことと同意である。
とすれば、尊徳は、和辻の見抜いた風土の持つ意味に、既に彼なりの仕方で気づいており、それが彼の実践を支えていたといえるのではなかろうか。
発表で、尊徳の思想は、ある部分については和辻哲郎(1889〜1960年)と同質なる部分を持つということが明らかになることを目指す。
本発表は、津田左右吉と和辻哲郎の記紀解釈の特質を、西洋思想の影響という視点から解明しようとするものである。
津田左右吉は、大正期に記紀解釈の先駆的著作『神代史の新しい研究』を著した。これに刺激されたかたちで、和辻哲郎もまた、津田とは異なる記紀解釈に基づく『日本古代文化』を世に問うた。昭和に入ってからは、いわゆる津田事件の法廷に和辻が証人として出廷し、津田の記紀解釈を弁護する証言をおこなっている。このように、記紀をめぐる津田と和辻の関係には、やや因縁めいたところがある。
津田も和辻も、各々の記紀観の成立・発展の過程において、当時最新の西洋思想であった神話学・人類学・社会学等の知見を積極的に取り入れていた。かれらの記紀解釈には、たとえばフレイザーなど共通した神話学者からの強い影響が見受けられる。にもかかわらず、両者の結論は大きく異なっている。本発表はこの点に着目し、津田と和辻の記紀解釈に関する西洋思想受容の態様とその相違について、記紀に登場する神々の性質をどう解釈し、位置づけたかの問題を中心に検討していく。この作業を通じて、津田・和辻の記紀解釈をささえる世界観についても考察したい。
「日本の古典文学の至上の名作」(川端康成)と評される『枕草子』であるが、その名作たる所以を理屈で説明するとなると容易ではあるまい。断片的な章段からなる随筆、これといった脈絡のない短い散文の雑纂物とも見える『枕草子』が、なぜ名作なのだろうか?
『枕草子』の各章段の短さを気に留めた一人が、和辻哲郎である。彼は1924(大正13)年の枕草子論で、それを清少納言の女性としての弱さに由来するものだとした。しかし、翌々年の「『枕草紙』に就ての提案」では立場を変え、彼女が書いた時点では脈絡があったはずであり、現存する諸本を手がかりに、いわゆる文献学的な方法によって失われた本来の構成を解明すべきだと主張した。『枕草子』の〈真の姿〉の復元を唱える和辻の訴えは、池田亀鑑らによる枕草子成立史研究を促し、その一方で村岡典嗣の枕草子論のような、一見散漫な章段の並びにこそ「脈絡の妙」があるとする見方も出た。
本報告では、当時の文壇での「小品」と呼ばれる短編作品群の流行にも目配りしつつ、以上のような『枕草子』をめぐる和辻らの思想を再整理する。
本発表では弘法大師入定説の資料分析を主眼に置き、往生伝文学が弘法大師入定説に与えた影響やその背景等について考察する。空海が腐敗しない状態で発見されたという伝説をめぐる議論を紹介した上で、弘法大師入定説における、空海の体が滅びず永遠に奥の院の中に安置された説について考察する。その中で、発表者は高野山復興運動と弘法大師入定説との関わりの重要性を主張したい。
高野山復興運動が盛んに行われた頃、遺体が腐敗しないことを瑞相として捉えた聖人伝(主に往生伝において)が広まっていき、往生伝編集者の大江匡房(1041―1111年)は、弘法大師入定説の根本資料となった『弘法大師讃』、『本朝神仙伝』、『大師即身仏譚』を記述した。
弘法大師入定説は968年に成立した『金剛峰寺建立修行縁起』を濫觴とするが、そこでは上述の匡房著の空海伝や往生伝(匡房と同時代の往生伝も含めて)と同様に、既に瑞相を重視する萌芽が見られることに発表者は注目したい。さらに、往生伝のみならず、弘法大師入定説の多くも実は往生思想と浄土教的聖人伝の影響を受けたと発表者は考える。
浄土宗の開祖たる法然房源空(長承二年[1133]〜建暦二年[1212])は、今は衆生の機根(教法を聞いて修証し得る能力)が劣化した時代であり、称名念仏こそが時機相応の行法であると標榜した。また天台僧顕真と宗論を戦わせた大原談義について、後年「法門は牛角の論なりしかども機根くらべには源空は勝たりき」と弟子に語ったという。その他の資料からも、源空の思想において時機論が重要な位置を占めていたことは疑いない。
従来の研究では、源空のこの時機論とはすなわち末法思想であるとされてきた。近年では佐藤弘夫が当時の末法解釈を、末法においても修行により証果を得られるとする顕密仏教の「末法証法論」と、末法において弥陀一教以外の教法は滅尽しているとする専修念仏者の「末法法滅論」とに二分し、源空のそれを後者に分類している。しかしながら発表者は、源空の時機論は末法思想でなく末代観を基調としたものであり、またその末法解釈は証法か法滅かという二分法では通説に反して前者に属する、ということを論証したい。
内村鑑三の「不敬事件」以来、井上哲次郎『教育と宗教の衝突』(一八九三年)を始め、「国民と宗教」を主題とする著作が次々とあらわれる。日露戦争以降、「国民道徳」を語る傾向はいっそう深まり、かかる枠組みにおいては特に、「仏教」という「世界宗教」の頂点としての「日本仏教」にまつわる言説や、その「日本仏教」を担う者の「世界的使命」を強調する語りは、更なる展開をみるに至る。本発表は、仏教を「日本」なるものとの関係において語る一連の言説は明治末期から大正期へと如何に展開したのかを理解すべく、高楠順次郎(一八六六〜一九四五)が著わした『仏教国民の理想』(一九一六年)に焦点を当てる。東京帝国大学教授であり、サンスクリット語学者であった高楠は、渡辺海旭(一八七二〜一九三三)らと共に『大正新脩大蔵経』(一九二四〜三四年公刊)を編集した人物として近代仏教史概説などで描かれることは多いが、戦前の彼の思想的な営み、とりわけ国民道徳論との関係においては取り上げられることは稀であり、本発表はその「研究序説」として考えることも出来る。
所謂「二神約諾思想」とは、中世に広く流布した君臣共治思想である。昨今、二神約諾に関する研究は、藤森馨氏や河内祥輔氏を中心として着々と進展している。二神約諾思想は、『日本書紀』巻第二神代下(第九段一書第二)の記述「復勅天児屋命・太玉命、惟爾二神亦同侍殿内、善為防護。」に基づくもので、言わば中世日本紀の一形態である。これは、皇室祖神天照大神が藤原氏祖神天児屋命と斎部氏祖神太玉命とに下した神勅の部分である。この「侍殿防護の神勅」は、中世神話の世界において、天照大神と天児屋命との二神の約諾と解釈され、それがそのまま、皇室と五摂家との特別な関係の根拠とされた。そして、この二神約諾思想を体現した世界こそ朝廷であるとの認識が、中世公家社会に定着する。村上源氏である北畠親房の摂政関白観については、白山芳太郎氏が早くも昭和六十一年に発表されている。そこで、今回の発表では、こうした理解が、宮廷だけではなく社会全般に浸透していく過程を、二神のみならず、その他の神々との関係も踏まえて紹介する。中世以降の二神約諾思想が、如何にして拡大し、受容され広まっていったのかを検証するものである。
今大会においては、軍記物語『太平記』を手掛かりに、南北朝武士の生死観について発表する。具体的には、悪党を代表する楠木正成らの忠臣的な「死にざま」や、ばさら大名、佐々木導誉の、権威に迎合しない武士の存在そのものを問う、実存的な「生きざま」を取り上げる。
勤皇思想に基づく忠臣的かつ没我的な楠木正成らの生死観や、既成概念にとらわれぬディレッタントな佐々木導誉の生死観の実態は彼らの「死にざま」や「生きざま」の諸相に求めることができる。畢竟するに、両者の生死観は、前者の「死にざま」と後者の「生きざま」の形態に集約できるといっても言い過ぎではあるまい。
このような両者の生死観の二極化から、『太平記』に描かれた南北朝という価値観の定まらぬ混沌とした時代は、中世武士の前者から後者の武士像への変容過程と捉えることもできる。その両極に位置する武士を比較対照し、彼らの「死にざま」と「生きざま」から、南北朝武士の生死観の実体を浮き彫りにしたい。
「言語を以て人を喩さんとする事大形はならぬ事にて候」―荻生徂徠は「理」を語り、人を説得することに非常に懐疑的であった。ただし、徂徠は全ての言語活動を否定した訳ではない。彼は説得に代わるコミュニケーションの手法があると考えていたのである。本発表では、第一に、徂徠の説得批判の背景に、「理」に対する人の見方は、「習」によって規定されているという考えがあることを検討する。このような徂徠の見解は、実際の書簡の応酬でも貫かれており、徂徠は質問者と自己との「習」の差異に、先ず目を向けさせるようにしている。第二に、古代中国においては「理」による説得と異なる、優れた討論の作法が存在していたと徂徠が見ていたことを考察する。古の「君子」たちは、「書」(『書経』)や「詩」(『詩経』)を引証しながら、意見を交わしていた。徂徠によれば、「書」の語句は論拠として高い権威を持っており、「詩」は考慮すべき「人情風俗」を示す時や、聞き手の自発的な理解を得たい時に「自在」に引用されていた。最後に、このような徂徠の討論観が以後の時代に与えた影響に触れ、今後の展望を述べることにしたい。